射和町の文化財Cultural Resource

竹川竹斎墓所

概要

314㎡/江戸時代以降/射和町 射和町自治会
市指定(平成21年3月27日)

 射和の町並みを一望する標高約32mの丘陵に、竹川家の墓所が設けられています。竹斎の墓碑は南面した墓所の中央にあり、周囲に竹川家代々の墓石が並びます。竹斎は明治15年(1882)11月1日没、同月3日の葬式は遺言により神式でも仏式でもない形式で行われ、「政胖葬(まさやすそう)」と呼ばれました。その時の様子は、子息・竹川政悌によって『射陽書院目録 竹川竹斎畧年表』に記されています。

竹川竹斎
1809~1882年(文化6年~明治15年)・・・父・竹川政信、母・菅子の長男として生まれた。
幼名は馬之助、元服して新兵衛政胖と改め、隠居して竹斎と号した。12歳の秋、家業見習いのため江戸店に入るが、恵まれた学問的環境の中で育ったこともあって、国学はもとより農政学をも修め、のちには明治維新の立役者となった勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟らとも親交を結び、海外事情にも目を開いていく。経世済民の実践家としては、郷里にあって溜池の築造や桑・茶園の開発を進めて地元の繁栄を図り、教育家あるいは文化人としては、古万古の復興を試み、射和万古を興すなど大きな足跡を残した。24,5歳からの念願で開設した「射和文庫」は、多額の私費をつぎ込み、一族にも呼びかけて開いたもので、日本の私立図書館の草分けともいうべきもの。名実ともに完備したのは、嘉永7年(1854)とされ、海舟から贈られた扁額が掲げられていた。現存する竹川邸は、玄関、茶室、座敷などが当時のままに残されている。